大宰府には、日本の西の守りとしての「防衛」と、九州一円の「統括」、外国使節の「もてなし」という
3つの重要な役割がありました。
663年、百済(くだら)の復興を図った日本は、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れます。世にいう「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。
翌年、連合軍の来襲を恐れた日本は、大宰府に急遽、山城(やまじろ)や水城(みずき)などの防衛ラインを築き始めます。
急ピッチで行われた防護壁の建設には、当時の最新技術や古代人の知恵がふんだんに詰まっていました。