素顔の天神さまに会いに行く
太宰府天満宮に祭られている学問の神様・菅原道真公。歴史をひもとけば、太宰府の片隅で一人静かに思いを巡らせる姿が浮かんできます。「西の都」で暮らした道真公の素顔に迫ります。
道真公が太宰府で過ごしたのは朱雀大路沿いの古びた官舎「南館」。道真公の霊を弔うために1023年、浄妙院が建立され、エノキの大樹があったことから「榎社」と呼ばれる
天神小路逍遥
(てんじんこうじしょうよう)
~素顔の道真公を訪ねて~
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天皇の忠臣・菅原道真(すがわらのみちざね)公。その活躍をねたむ藤原氏に無実の罪を着せられ、大宰府の長官代理として901年に京から流されます。しかし、それは名ばかりで、大宰府の役所へ入ることもできず、「南館(なんかん)」と呼ばれた古びた官舎で不便な生活を強いられ、観世音寺(かんぜおんじ)の鐘をむなしく聞くだけでした。大宰府の南にある天拝山(てんぱいざん)には、道真公が天に無実を訴えたという話が伝わります。
失意のうちに亡くなった道真公の亡きがらを牛車に乗せて運んでいたところ、突然牛が動かなくなり、その地を墓所にしたといわれ、後の太宰府天満宮の始まりになります。道真公の死後、名誉が回復されると「天神さま」として祭られ、多くの人々の崇敬を集めるようになり、「天神さま・菅原道真公」を大切にするまち・太宰府が形成されました。
道真公の霊を弔うために南館の跡地に建てられた浄妙院(じょうみょういん)(現:榎社(えのきしゃ))と太宰府天満宮を結ぶ神幸行事は、現代によみがえる平安絵巻として多くの人々に親しまれています。
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関連文化財
大宰府政庁跡/太宰府天満宮/太宰府天満宮の神幸行事、伝統行事/南館跡/観世音寺/梵鐘(ぼんしょう)〈観世音寺の鐘。現在は九州国立博物館で展示中〉/天拝山
毎年9月に行われる太宰府天満宮の神幸式大祭(じんこうしきたいさい)。道真公を祭る太宰府天満宮から、道真公が居住していた南館跡までを古代衣装に身を包んだ400~700人の行列が行き来する
学問の神様、文化芸術の神様、厄よけの神様など、多くの人々の崇敬を集める天神さまを祭る太宰府天満宮
旅人の足あと
奈良時代、大宰帥(大宰府長官)として赴任した大伴旅人は、「梅花(ばいか)の宴(えん)」を催すなど「西の都」に華やかな万葉文化を開花させました。「西の都」を巡れば、旅人の心の原風景に出会えます。
“こころの旅人(たびと)”
の原風景
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大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人(おおとものたびと)。役人であると同時に優れた歌人でもあった旅人は、多くの歌を世に残しました。大宰府に赴任して間もないころ、長年連れ添った最愛の妻・郎女(いらつめ)を亡くします。悲しみに暮れる旅人は、朱雀大路(すざくおおじ)の南の先、次田温泉(すいたのゆ)(現:二日市温泉)を訪れ、湧き出る湯に心身を癒やしながら妻を思う哀悼の歌を詠みました。彼を慰めるべく都から訪れた石上堅魚(いそのかみのかつお)らと基肄城(きいじょう)へ登り、目の前に広がる平野を眺めながら、心情を込めて彼らに返歌しました。
大納言として帰京するときには、阿志岐山城(あしきさんじょう)を望む蘆城駅家(あしきのうまや)で催された別れの宴で、月夜の川の音に耳を傾け、爽やかな送別の歌を詠みました。また、平城京へと続く道(官道)を歩みながら、「西の都」最後の地・水城(みずき)の東門に着いたとき、深い交流のあった女性・児島(こじま)との別れを惜しみ、心の内を歌に込めました。歌は、「西の都」と旅人をつなぎ続けたのです。
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関連文化財
万葉集筑紫歌壇(つくしかだん)〈奈良時代に太宰府に滞在し、万葉集に歌を残した歌人集団。旅人宅で早春の梅を見ながら歌を詠む梅花の宴が有名〉/太宰府の梅/次田温泉(二日市温泉)/基肄城跡/阿志岐山城跡(現在は非公開)/水城東門跡・官道
基肄城跡は、旅人らが和歌を詠む交流の場ともなっていた
水城東門跡そばには、旅人と児島が詠んだ歌碑がある
妻を亡くした旅人が悲しみを癒やすために訪れた次田温泉(二日市温泉)。かつては川湯の両側に並ぶ温泉宿があり、その風情ある町並みの名残を今も感じることができる
遙かなる要塞
白村江の戦いで敗れた日本が、海外の脅威に対峙(たいじ)するために築いた防衛施設。四王寺山の大野城、基山の基肄城そして平野部を閉ざす巨大な土塁、水城。それらは、百済最後の王都の技術の面影を今に伝えています。
現在の九州道太宰府インターの南側付近からJR水城駅の南西付近まで、一直線に巨大な濠を持つ土塁が築かれた
いにしえの要塞
(ようさい)
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663年、百済(くだら)救援に向かった日本は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)の連合軍との戦いに敗れ、海外からの脅威にさらされます。戦いの翌年、長大な土塁(どるい)と外濠(そとぼり)からなる水城(みずき)を築いて北西に広がる平野を遮断しました。そして、この城壁と接続する城塞として北に大野城、南に基肄城(きいじょう)を置き、所々に築いた土塁で周囲の守りを固めました。
これは、百済の王都・扶余(ふよ)を手本としたもので、亡命してきた百済官人の指導の下、最先端の土木技術を取り入れて巨大な防衛施設を短期間で築造しました。その後、海外からの脅威が去ると、この城壁を外郭として生かした壮大な「西の都」大宰府が成立します。東アジア諸国との外交が再開されると、水城の西門は博多湾からやって来る外交使節を迎える大宰府の玄関となりました。
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関連文化財
水城東門跡/大野城跡/基肄城跡/阿志岐山城跡(現在は非公開)
春になると桜並木が水城を華やかにする
大野城跡の百間石垣(ひゃっけんいしがき)。敵の侵入を防ぐため、石垣の外壁面は急な傾斜になっている
神功皇后、かく回られき
筑紫路には神功皇后ゆかりの場所がたくさん。伝承されるだけでなく、その伝承が由来となった当時の人工用水路「裂田溝」が今でも利用されている事実に驚きます。「西の都」の違う姿を新発見するミニトリップです。
日本書紀に記載がある「裂田溝」。日本最古の人工用水路は今も田畑を潤す
“神功皇后(じんぐうこうごう)
伝承”を巡る
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『日本書紀』や『万葉集』に記された神功皇后の逸話には、今も地名として残されているものがあります。神功皇后が香椎宮(かしいぐう)から現在の朝倉市へと移る道中にかぶっていた笠が風で飛ばされた地を「御笠(みかさ)」、笠がかかった森を「御笠の森」と呼ぶようになったと記されています。古代の大宰府は「御笠郡(みかさぐん)」にあり、宝満山(ほうまんざん)は「御笠山(みかさやま)」と呼ばれていました。
今も流れ続ける用水路、裂田溝(さくたのうなで)は「神功皇后が神に祈りを捧げるため、田んぼに儺河(なのかわ)(現:那珂川(なかがわ))の水を引こうとしたところ、雷が落ち、行く手をふさいでいた大岩が裂けて水が通った」とする伝承に基づき名付けられました。やがて、神功皇后は筑紫の「蚊田(かだ)」で後の応神(おうじん)天皇を産み、その地を「宇美(うみ)」と名付けます。安産祈願で知られる宇美八幡宮の境内には「蚊田の森」と呼ばれるクスノキの森があり、多くの人々に親しまれています。
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大岩が裂けて水路ができたとされる「裂田溝」。遊歩道が整備されているので周辺の散策も楽しめる